大龍峒は元は平埔族凱達格蘭の「巴琅泵社」の居住地でした。「巴琅泵」は別名を巴浪泵、或いは大浪泵とも言い、Pouromponの音訳から来ています。大浪泵はその後「大隆同」と呼ばれ、また文字の美しさのために「大龍峒」と呼ばれました。地理的には淡水河と基隆河が交わった付近に位置し、現在の台北市大同区です。
大浪泵の開発は、漢人の台北盆地拓殖史上において、艋舺に次ぐ地位にあり、開発時期は大稻埕に比べて早いです。
明朝の鄭成功時期、漢人が開墾したのは主に台湾南部でした。台湾北部または台北盆地内の開墾は少し遅いです。その地理的範囲から言うと、台北盆地の開発は康煕48年(1709)の陳頼章拓殖会社の開墾特許の中に、大龍峒はすでにその北側の開墾地域の1つでした。

1. 保安宮の建設について
 
保安宮の建設年代は、清国時代《淡水庁志》によると、保安宮は嘉慶10年(1805)、寄付によって建てられ、道光10年(1830)に完成したと記載されています。

《台北保安宮専志》には、乾隆7年(1742)の時、泉州同安の移民がその故郷の白礁慈済宮から、保生大帝に分霊を求めに台湾にやってきたと記されています。そして、当初は木造で架設された粗末な廟でしたが、後に神のご利益が現れたことに感謝した住民が、乾隆20年(1755)から拡張し、乾隆25年(1760)に竣工しました。

この他、保安宮の大殿の竜柱の落款は嘉慶甲子年、つまり嘉慶9年(1804)で、これは《淡水庁志》の記載より早いです。また同福建系三邑人と同安人が台北盆地内で対立する過程において、乾隆3年(1738)、三邑人は艋舺に龍山寺を建て、同安人は大龍峒に保安宮を建て、これに強く対抗しました。そのため、保安宮が創建された年代は文献の記載と比べ、更に数年早くなります。
2. 保安宮と四十四坎
 
保安宮と大龍峒の街の集落発展には密接な関係があり、過去、保安宮の建設と商店街四十四坎の関係についても、多く議論され

保安宮は最初、当時の四大姓が協力して資金を集めてできたもので、王姓一族が寄付した土地に廟を建て、そして陳、張、蔡など大姓の支持を得ました。そしてこれら大姓は四十四坎の商店ともおおいに関係があります。発展上、保安宮の祭祀行政区は一、二、三堡の一部の地区です:

一堡:大龍峒、滬尾、北投。
二堡:和尚州、三重埔、新庄。
三堡:大稻埕。


保安宮の宗教活動は、毎年に、大帝の誕生日(旧暦3月15日)、昇天日(旧暦5月2日)、中元(旧暦7月10日~12日) 3大祭祀と言われます。その費用は三堡の住民が順番に負担し、現在は多くがこの旧習に従っています。そして保生大帝の生誕に、同安出身の各姓がお金を出し合って芝居するのが家姓戯で、3月5日から28日まで、張姓から始まり、呉姓がしんがりの順番です。これからも張姓の力が最も充実していることがわかります。昔から「大浪泵の張、加蚋仔の楊」と言い伝えられています。

そして三堡の住民の支持のもと、保安宮は数回の修繕を経て、さらに風雅になりました。道光8年~13年(1828-1833)、泉州から招いた名匠許厳が本殿の三十六神将祭神を彫刻し、その造型と手法には

光緒21年(1895)下関条約が結ばれ、台湾が日本に割譲されると、台湾民主国大統領唐景崧はアモイに逃げ帰りました。日本軍が上陸して台北が陥落し、地方は混乱で、円山にあった火薬庫が爆発、保安宮にも波及しました。光緒24年(1898)、保安宮は日本人に占拠され、第3付属国語学校とござ製造会社が設立され、これは大龍峒公学校に変わりの前身です。その後、保安宮は長年占拠されたため、メンテナンスが不良で廟の絵の具がはげ落ちても修繕されませんでした。後に三堡の有力者が寄付を募って修理しました。

大正6年~8年(1917~1919)の修築は大規模で、保安宮は三堡の有力者である沈猪、陳培根、林明徳、李声元、鄭根木、陳春輝、黄賛鈞、林清敦、蔡受三らがそれぞれ資金を集め、二年間をかけてようやく修築が完成しました。今回の最大規模の修築が順調に竣工できたことを祝うため、廟側に大正9年(1920)1月18日(旧暦大正8年11月28日)から、5日連続して祭壇を設けた活動をすることに行いました。

祭壇の手配:玉皇壇は保安宮殿の前に、天師壇は保安宮の前殿に、北極殿は辜顕栄の別荘に、五穀壇は大稻埕の新媽祖宮前に、龍王壇は保安宮前の東畔新起店に設けられました。このほか4つの副壇があります:外城隍壇は太平街に、福徳壇は稲江市場内に、観音壇は城隍廟のそばに、灶君壇は牛磨車庄福徳祠内にあり、それ以外にも、自ら壇を設置して参加し、盛りあげた者もいました。

この5日の祭壇の経費におよそNT$50万元かかったと推測され、保安宮は政界の要人を招待し、地方の名士たちを参与させる能力があると同時に、このように莫大な経費を1、2ヶ月以内に募ることができ、保安宮の充実した人脈と影響力を見ることができます。

保安宮には住職を務める僧侶がいますが、実際に廟の権力と財産を掌握管理するのは管理人です。大正1年、管理人王慶忠の管理が不適切だったため、三堡の信者の不満を招きました。そこで信者の鄭万鎰など20名あまりが発起して、大稻埕の慈聖宮で会議を開き、管理人の職務を解除すると共に再選挙し、三堡の中からそれぞれ2人選出し管理人を担当する決議をしました。この他に理事30名、また評議員若干名を選出しました。管理人の任期は6年で、6人の管理人は次の通り:一堡の陳培根、沈猪、二堡の林啓輝、林明徳、三堡の黄玉階、鄭万鎰です。

保安宮の修築完成後から皇民化の時期まで、廟側は多くの行事を行いました。その1つが孔子祭です。その時、台北孔子廟の建設がまだ完成していなかったため、“台北崇聖会”が孔子祭の典礼を主宰し、早くは大正15年(1926)、保安宮内で開催されました。昭和2年(1927) 9月22日、台北崇聖会が再び保安宮で孔子祭の式典を挙行しました。

2つめは雨乞いです。明治35年(1902)、現地住民は長く続く干ばつのため保安宮に雨乞いをしました。その後長い間中断し、昭和18年(1943)に再び行われ、これは地主の代表社の陳錫慶が責任者として、5月16日に挙行されました。まず道士に天に奏章を呈してもらい、儀式終了後、陳氏が率いるもと、数十人の農夫が正式に台湾神社に参拝しました。

民国34年(1945) 8月、台湾は復帰しました。戦争の影響のため、台湾各地の状況はよくなく、保安宮もそれから逃れられませんでした。復帰当初、保安宮の管理人の多くが亡くなったり、離散したため、宮の事務はほとんど止まってしまいました。39年(1950)、中国から台湾に撤退してきた兵士の家族と難民など計130戸あまりが、東廡の仏祖殿と西廡の註生娘娘殿、裏側の五穀先帝殿を占拠し、わずかに残された正殿の中門から出入りできるだけでした。

民国41年(1952)、地方の大学者が「保安宮臨時再建委員会」を設立し、黄賛鈞に修繕の大事業を主宰してもらいました。民国46年(1957) 6月、「保安宮管理委員会」に組織改革して、林拱辰が主任委員を引き継ぎました。林氏の各方面への働きかけにより、民国55年(1966)、台北市政府はこの項目の補助を支出し、長い間仮住まいしていた軍人の家族を引越しさせました。また宮内の違法建築を除去して、ようやく工事を順調に行うことができました。民国56年(1967)に後殿を修築するとともに、古くからある不完全な先帝宝像を焼いて、新たに木彫りの宝像と孔聖先師の宝像を作りました。

林拱辰は再建