保生大帝(979~1036)は、姓を呉、名夲をと言い、また呉真人、呉真君、花轎公などの尊称もあります。字を華基、号を雲衷といい、福建省の泉州府同安県白礁郷人で、北宋の太宗太平興国4年(979)旧暦3月15日に生まれました。幼少の頃から聡明で、多くの書物を広く読み漁り、一度読んだら忘れず、特に医術に優れていました。17歳で奇異な人に導かれ西王母に謁見することができ、妖魔を退治する術を授かりました。24歳で科挙に合格し、御史職に任ぜられ、その後、辞職し隠居すると、白礁大雁山で修行しました。彼は一生菜食で結婚せず、医者として世の人々を救い、助けた人は無数です。宋の仁宗景佑3年(1036) 5月2日、修行が終わり、鶴の迎えが来て、同郷の人がひざまずいて見送るもと、昼間昇天しました。享年58歳でした。

 大帝は生前、点龍眼、医虎喉(龍の目に薬をさし、虎の喉の痛みを癒し)などの伝説が伝えられています。昇天した後も、神としての痕跡が何度も現れ、国を守り民心を安定させました。宋高宗は太子の時、金朝に人質にとられていましたが、大帝が霊験を現し、護衛されて中原に帰ることができました。高宗が即位した後、詔書を発して廟を立て、大道真人の名を与えました。

 明の成祖帝の文皇后が乳の病いを患い、薬石効がなく、侍医は手の施しようがありませんでした。大帝は道士の姿で現れると絹糸で脈をはかり、皇后の病気を完全に治しました。成祖は金を贈りましたが、大帝は断って鶴に乗って去りました。成祖は大帝に感謝し、「昊天闕御史慈済医霊妙道真君万寿無極保生大帝」という名を与え、龍袍と宮殿建造の勅命を出しました。大帝は難しい病気を治療し、世の人々を救い、後世には医神として敬われ

伝説によると、三十六神将はもとは玄天上帝に仕える神で、玄天上帝が成仏した後、その部将の亀と蛇の2人の部将が世の中で悪さをしました。そこで玄天上帝は所属する三十六官将を人質にして、保生大帝から宝剣を借り、亀と蛇の2人の部将を服従させました。しかしその後、玄天上帝は威力を持つ宝剣を手放すことができず、ずっと返さなかったのです。そのため保生大帝は三十六官将を護壇神将として身辺に留めたのです。別の説では、保生大帝が同安県一帯の山林で薬草を採集し丹薬を作っていた時、虎にかみ殺された同安県知事の童僕を生き返らせました。この県知事は保生大帝の無限の法力を見て、大帝の弟子として修身したいと願い、大帝に聞き入られました。江県知事は役所に戻ると、張師爺(すなわち張聖者)に、非凡な人に出会って弟子にしてもらった事を話すとともに、官を捨てて大帝について修行したいと表示しました。そして役所の印鑑を彼に手渡したところ、思いがけなく、張師爺も貴重な機会だと感じ、官位を捨て同行することになりました。その後、保生大帝が白礁山に隠居し修練していた時、1日中経典を解釈し、教えを受けた人は日に日に多くなり、門下は秘法を深く理解し、正統な信者が36人になったと言うことです。

 《台北保安宮専誌》の記載によると、三十六神将は紀仙姑、連聖者、五龍官、鎖大将、金舍人、倒海大将、李仙姑、馬龍官、劉聖者、柳大将、唐舍人、移山大将、趙元帥、殷元帥、岳元帥、王孫元帥、辛元帥、必大将、康元帥、温元帥、紀水真人、鄧元帥、李元帥、高元帥、鄞仙姑、張醒者、拿大将、江仙官、虎加羅、食鬼大将、何仙姑、蕭聖者、捉大将、紅化官、馬加羅、呑精大将です。ただ楊浚の《白礁志略》中に列記された三十六神将の神譜によると「神妹の呉明媽、神の妹婿の王舍人、江仙江少峰(同安の県知事)、張聖者(同安の主簿)、黄医官、程真人、鄞仙姑、鄧天君、連聖者、劉海王、孔舍人、炳霊官、馬迦羅、虎迦羅、劉天君、王霊官、李太子、何仙姑、殷太子、張真人。殷、古、宋、孟、岳、辛、高、二李、周、江、党、黒、康弼、田直、龐、楊、王、黄諸元帥と各将はみな次第に加入し、現在、廟中の主神に添えて描かれています。」

宋朝時代からの言い伝えによると、虎が1人の婦人を丸飲みにしたところ、婦人が頭にさしていたかんざしが喉に刺さりました。ひどい苦痛のため、呉真人に助けを求めて来たのですが、呉真人は「おまえは多くの人や獣を殺した。これは天の懲罰だから、おまえを救うことはできない。」と責めました。ところが虎は立ち去ろうとせず、ずっとその場で頭を下げ懺悔していたので、呉真人はその真心に感動し、ついに治療してやりました。虎は呉真人の恩恵に感謝し、それ以後、片時も真人から離れず、生前は真人の乗り物として働き、死後も忠誠に守護したので、真人は猛虎を神にしてやりました。民間では毎年4月16日を「虎爺」の祭日とし、「黒虎将軍」または「将軍爺」と呼んで尊崇し、民間の「虎爺」とはまるで違います。

またの名を五穀先帝、薬王大帝、五穀先生、先帝爺、開天炎帝、炎帝神農氏、五穀王、粟母王などと言います。神農大帝はつまり神農氏で、姓を姜といい、厲郷に生まれ、姜水で育ちました。言い伝えによると、母親が華陽を旅した時、神龍の頭が見え、帰宅すると妊娠しました。大帝が生まれた時、体は人で頭は牛という変わった容貌でした。

 神農氏は農具を発明し、人々に農耕と開拓を教え、狩猟から農耕へと変化進展させました。彼は自ら様々な草を味わい、薬草の属性を分類するとともに、人々病を治療しました。一般に民間が祀る神農像の多くは上半身を露出し、手に稲穂を持ち、腰を木の葉で覆った原始的イメージです。伝説中の「人身牛首(体は人で頭は牛)」のイメージと趣が大きく異なります。

 保安宮になぜ神農大帝が祀られるのかというと、聞くところによると百年あまり前、台湾は干ばつで、たくさんの作物が成長できずに凶作になりました。ある者が神農大帝に雨乞いをすると、ほどなく本当に雨が降り、日照りや凶作の現象が全で取り除かれたのです。人々は大帝の恩恵に感謝し、神農大帝を当宮の後殿に祀ることにしたのです。