中国の古代社会は礼制で各種建物の形と構造を制約したほか、また礼制の要求により、適した建物の壇、廟、祠のような建物のタイプが生じました。人々が神を崇敬するにつれ、その建築規制の形式と発展に対し、相当の影響がありました。礼制建築には自然神の壇廟と人文神の廟の二大類が含まれます。祭祀の対象が異なるため、共に祀られる人も異なり、建物の形と構造、規模上も、その神格により、かなり大きな違いがあります。
保安宮に祀られる主神の保生大帝は宋時代の真人で、また皇帝から称号を賜るという、天子の礼を有します。その敷地は3000坪余りあり、全国最大の保生大帝廟です。廟は北に位置し、南に向き、建物の配置は、三川殿(前殿)、正殿、後殿に分かれ、中軸の主体を構成します。両側には東西護室と鐘鼓楼を配して、完全な三殿回字型構造を形成しています。正殿が最高で、後殿、三川殿、東西護室の順で、儒家の礼制思想と道教の形制(形と構造)観念を備えています。廟の前の庭園内には池があり、池に卍形の橋がかけられています。そして、1961年に建てられた照壁も「後有靠,左右有抱,前有照(後ろに頼るもの、左右に抱くもの、そして前に目かくしがある)。」という風水の哲理に合っています。  
保安宮の建物には、開墾移住者の本籍の背景も反映されています。例えば屋根は伝統的な木造構造の三川脊式、屋脊(屋根の棟)は福建南部式風格、地面と壁面上に積み上げた幅広で偏平な赤れんがや赤瓦など。三川殿と正殿の吊筒は全て竜頭を伸ばし、これも同安や漳州、泉州一帯の手法で、重大な特色を現しています。歴史的価値を持つほか、その精致な木彫り、石刻、彩色画、泥塑、剪粘など、建築芸術上においても非常に高い成果があります。芸術は宗教と同じく、どちらも人を敬虔な気持ちを起こさせます。

前殿とも呼ばれ、幅は5開間(2本の柱の空間を1開間とする)、中央に3開間の三門を開け、左門が竜門、右門が虎門で、入口に仁獣を一対置きます。左右とそれぞれに山門が1つ、合わせて11開間あり、建物の木造構造は二通三瓜式を採用しています。歇山重簷、仮四垂屋根、硬山などで、保安宮の家屋の高低交錯と、軒下の翼角の飛揚するような視覚効果を構成します。大門横木上には双竜双鳳が彫刻され、四角の雀替には飛竜と鰲魚(頭が竜、身体は鯉)が彫られ、中梁には魔よけの太極と後天八卦図案がデザインされています。その他に「看架斗栱」上にはそれぞれ異なる表情の八仙、賜福天宮と騎鶴仙翁が彫られています。

保安宮のちょうど中央に位置する壮麗な建物です。建物は独立構造を採用し、幅が5開間の重簷歇山式造型です。頂飾は七級宝塔と精致な剪粘で、建物の木造構造は三通五瓜式で、高く大きな屋根が視野の大部分を占めます。外観について言うと、正殿の形と構造は厳格且つ重厚な造形で、36本の柱を用いてます。回廊には20本の柱を用い、安定し、ほとんど左右対称ですが、実は左右で少し異なります。これは日本統治時代の大正6年(1917)の修復時に、陳応彬と郭塔という2人の名匠が現場で技を競いあった結果で、完成後、左右の外観それぞれに神技的な面白さが現れました。宮殿前の台は神を祀り、修行を積み、加持祈祷をする場所です。殿内に用いた材料は一般の寺廟と異なり、非常に大きい瓜筒で、華麗な装飾天井に代えました。棚の上の木彫りは非常に特別で、軒先を支える横梁を斗栱に代えて「憨番扛大杉(大杉を担ぐ憨番)」を用い、いっそう堅固な構造にしました。「憨番」ははげ頭でお腹が突き出たとてもおもしろい造形です。さらにストーリー性のある「人物」の光背の彫刻が精密で生き生きしているので、じっくり鑑賞する価値があります。

建築形式は単簷硬山の造形で、9開間を呈し、木造構造は三通五瓜式を採用し、三川殿や正殿と同じく、力強い通梁と瓜筒で木造構造の力学的美感表現しています。後殿の特色は、殿内の雀替に飛鳳が彫刻された木彫りがあり、造形が優美で、ほぞをつなぐための花草台座と獅子台座の木彫りは、工法がまたきわめて精緻です。

東西護室は正殿の両側に位置し、赤い素焼きの屋根瓦と白壁が、あっさりして地味ですが、特色をさらに目立たせています。鐘鼓楼を東西護室の頂上に置いた歇山重簷式建築で、その楼閣は四角形で、台湾でよく見られる六角形と異なり、きわめて特殊な造型です。東側の鐘楼と西側の鼓楼は、それぞれを陳応彬と郭塔という2人の名匠が工事を受け持ち、木彫りデザインと彩色画図案の風格がことごとく異なります。鐘鼓楼の正面には、それぞれ「鯨発」、「鼉逢」の額があります。鐘楼の軒下の網目斗栱は縦横に交差し、高い難度の木造構造の技巧で、斗座の上まで「リスとカボチャ」の木彫りで飾られています。カボチャは種子が多く、リスの発音は「送子(たくさんの子孫という意味)」と似ているので、たくさんの子孫があるようにという意味を持ちます。そして鼓楼の軒下にも精緻な「蓮花」が彫られた吊筒や、「飛鳳」の雀替、「螭虎」の栱があり、鐘楼と鼓楼それぞれの違いが見て取れます。

保安宮の裏庭で、もとは花園でした。天子の門下生の所在地で、1980年に4階建てのビルが建設されました。大雄宝殿、凌霄宝殿はそれぞれ3階と4階に位置し、1983年に完成した建物です。北方宮殿式建築を採用し、黄色い瑠璃瓦の重簷屋根で、400坪余りを占めています。1階に雲衷ホール、2階に図書館が設置されています。

寺廟の装飾芸術には木彫り、石刻、彩色画、泥塑、交趾陶、剪粘などが含まれ、全てに奥深い意味と、豊かな教育的意義を持ちます。その題材の内容は人物の画像で表現され、主に歴史、文学の典拠、神話、伝説故事に分けられます。例えば《三国史演義》、《封神演義》…、正史の《漢書》、《史記》…などです。その他、似た発音やシンボルで表示され、例えば、4匹のコウモリは「賜福」を表し、元宝は「財」を象徴します。花瓶は「平安」を表わし、カニは甲羅を持つので「登科甲(科挙に登る)」の意味があり、葫蘆(ヒョウタン)は「福禄」と発音が似ています。旗、球、戢、磬の発音は「祈求吉慶」を表し、琴、棋、書、絵は「詩礼伝家(伝家の詩経礼記)」などを象徴します。

保安宮三川殿の左右両側の石造彫刻で、それぞれ竜壁と虎壁が刻まれ、「左青竜、右白虎」という伝統的観念に基づいています。竜堵には天竜と水竜が珠玉を奪い合う図案が彫刻され、上に雲、下に波があります。虎堵には母虎と子虎が戯れる光景が彫刻され、木の枝が風に揺れ、《周易・乾・文言》の「雲は竜から、風は虎から」の意味に符合します。中門両側の石堵上には、左右の頭板にそれぞれ「恩隆民物」と「徳同乾坤」が彫られています。身堵には、四角い螭(角なし竜)虎窓が置かれ、4匹の螭と虎が上下左右を囲むように彫られ、中間には「麻姑献瑞」と彫られています。裙堵には吉祥の獣、麒麟が彫られ、下方には櫃台脚を置いて、形と構造がとても整っています。

保安宮中門の左右に、二基の石獅が立っています。雌雄各一基で、慣例通りでは、雌獅子は口を閉じ、雄獅子は口を開けています。言い伝えによると、彫刻した時、職人が誤って雌の口を大きく裂けさせ、規定に合わないため罰せられ、工賃を減らされたそうです。この二基の石獅の造形は一般のものと異なり、目が大きく、尾も大きく、巻き毛で口を開き、角度が大きいです。古人はこの獣を「牴牛」と呼び、「牴」は法獣で、「牛」は仁獣だと伝えられています。

保安宮三川殿の明間(重要な部屋)と正殿の次間の竜柱は嘉慶9年(1804)と嘉慶10年(1805)に作られた、保安宮最古の石造彫刻作品です。八角柱に竜身が浮き出し、4爪の竜がとぐろを巻き、前足は波に、後足は雲に登り、並外れた勢いの清代中期の竜柱の代表作です。大正7年(1918)の修築時に、正殿の明間に、天地の安泰と平和を象徴する双竜の竜柱を一対新たに増加しました。竜柱以外に、三川殿のその他の石柱は全て角柱で、反対に円柱は旧制建築です。正殿の石柱は四角形で、六角形、八角形で、柱の基礎の彫刻方法には、円形、角形、菱花形の3種あり、寺廟建築中、滅多に見られないものです。後殿明間の花鳥柱は保安宮が大正6年(1917)に修築した時の作品で、牡丹と雀がそれぞれ姿を表し、造型が優美で、非常に芸術的風格があります。

保安宮の左右東西の山門の両壁上には、さらに書巻竹節窓が彫られています。窓枠は石材を用い、書巻形式に彫刻されています。中間には竹が刻まれ、奇数の竹の幹が陽を表し、偶数の間隔が陰を表し、陰陽の調和を意味します。

保安宮三川殿の前後重簷の水車堵と東西山門の水車堵の泥塑は歴史的人物の故事で、ライバル施工法(二名の建築士により別々施工)でもあります。東山門は洪坤福の「甘露寺」で、西山門は陳豆生の「鳳儀亭」で、東西護室の扉と窓上の泥塑、交趾陶は造形が異なります。例:掛け軸、書巻、旗印、ザクロ、芭蕉の葉、仏手、カボチャなどの図案装飾です。正殿の重簷の水車堵の剪粘と泥塑は陳豆生の作品で、清供博古と歴史的人物の故事を主とします。正殿内壁の大型竜虎堵の交趾陶はその作品サイズが非常に大きく、まず分割した後、個別に焼いてから組立て、鷺江洪坤福作の落款があります。後殿内壁の竜虎堵の交趾陶、構図と風格が正殿内の洪坤福の作品と全く異なり、泉恵洛河江の蘇宗覃の作品です。そして、屋根の棟、軒下、水車堵上には各タイプの剪粘と交趾陶が分布し、色鮮やかで美しく、題材が豊かで、一つ一つが緻密に細工され、しかも生き生きとして、寺廟にたくさんの特色を加えています。

保安宮三川殿の木彫りは大正6年(1917)の修築時に陳応彬と郭塔が技を競った作品で、光背、雀替、吊筒などを含みます。テーマには「趙雲救主」、「孔明智激周瑜」、「曹操宴長江賦詩」、「薛仁貴巧計攻摩天嶺」、「成湯聘伊尹」、「尭聘舜」、「呉滅楚」、「劉邦先入咸陽城」、「花木蘭代父従軍」、「煮酒論英雄」、「甘露寺」などがあります。郭塔はさらに光背に「真手芸無更改(真の腕前は変更するところがない)」と「好工手不補接(良い仕事は補わなくてよい)」の字を残しています。しかし斗拱の木彫りには恵安の職人、曾銀河の作品もあります。正殿の木彫りは、屋根の重簷の斗栱が陳応彬と郭塔の対抗作「八仙大鬧東海」です。当時、郭塔が「鬧東海」の3字を刻んだのに対し、陳応彬は「八仙大」と刻まず、ほかにも、郭塔は斗栱上にも「仮獅破真獅」の字を残しました。その他、光背、雀替、吊筒の木彫りと殿内の神棚などがあり、テーマには「辞母従軍」、「空城計」、「寒江関」、「八仙」などがあります。後殿の木彫りの光背、雀替、吊筒などには古い作品が保留されています。

保安宮三川殿明間の大門の門神はもとは張長春が描いたものです。保安宮のひさしの梁や棟、門窓扉などの絵画のほとんど全てが彼の手によるものです。正門に描かれた秦叔宝、尉遅恭の2人の門神は特に生き生きとし、貴重なもので、絶品と称されています。民国72年(1983)、保安宮が絵画の書換えをした時、劉家正によって描き直されました。今回、三川殿を修復した時、木材が損壊したため作りなおされ、元の大門の門神は後棟1階の雲衷ホールに保存され、新作の門神も劉家正に描いてもらいました。明間の左扉は白い顔、切れ長の目、鐧を持った秦叔宝、右扉は黒い顔、大きな目、鞭を持った尉遅恭です。竜の側の小港門の門神は官帽をかぶった文官と子鹿で、加冠(昇官)、晋禄(昇給)を象徴します。虎の側の小港門の門神は官花と酒杯を持った文官で、添花(美)、晋爵(昇官)を象徴します。東西山門は四大官将です。

壁画は中国で悠久の歴史があります。唐代に壁画が流行し、宮殿や寺には有名画家の絵筆が多くあります。宋代になると文人画が起こり、巻絵が壁画に取って代わり、壁画は民間の職人の専門となりました。保安宮正殿周囲の回廊壁面の彩色壁画は、テーマが「韓信跨下受辱」、「朱仙鎮八槌大戦陸文竜」、「鍾馗迎妹回娘家」、「八仙大鬧東海」、「花木蘭代父従軍」、「虎牢関三戦呂布」、「賢哉徐母」などの7枚に分かれています。それらは亡き人間国宝、潘麗水先生が民国62年(1973)、保安宮に残した比類なき大作です。

 保安宮は200年あまり、何度も修築、増築し、たびたび建物の装飾を変えました。大正時期の修築では、漳派の職人、陳応彬と郭塔が技を競い、その神技にはそれぞれ長所があり、きわめて高い芸術的価値があります。三川殿両側の木彫りの光背、正殿屋根の重簷の「八仙大鬧東海」の木彫りの斗拱、東西山門の水車堵の泥塑は明らかに対場作品です。特に当時、西洋風が東洋に入り、三川殿の木彫りの光背には西洋のビルが出現し、泥塑にも洋服姿の女性と背広姿の紳士が現れています。西洋文化が台湾の伝統工芸と融合し、特殊な風格を形成しています。