大龍峒は元は平埔族凱達格蘭の「巴琅泵社」の居住地でした。「巴琅泵」は別名を巴浪泵、或いは大浪泵とも言い、Pouromponの音訳から来ています。大浪泵はその後「大隆同」と呼ばれ、また文字の美しさのために「大龍峒」と呼ばれました。地理的には淡水河と基隆河が交わった付近に位置し、現在の台北市大同区です。
大浪泵の開発は、漢人の台北盆地拓殖史上において、艋舺に次ぐ地位にあり、開発時期は大稻埕に比べて早いです。
明朝の鄭成功時期、漢人が開墾したのは主に台湾南部でした。台湾北部または台北盆地内の開墾は少し遅いです。その地理的範囲から言うと、台北盆地の開発は康煕48年(1709)の陳頼章拓殖会社の開墾特許の中に、大龍峒はすでにその北側の開墾地域の1つでした。

1. 保安宮の建設について
 
保安宮の建設年代は、清国時代《淡水庁志》によると、保安宮は嘉慶10年(1805)、寄付によって建てられ、道光10年(1830)に完成したと記載されています。

《台北保安宮専志》には、乾隆7年(1742)の時、泉州同安の移民がその故郷の白礁慈済宮から、保生大帝に分霊を求めに台湾にやってきたと記されています。そして、当初は木造で架設された粗末な廟でしたが、後に神のご利益が現れたことに感謝した住民が、乾隆20年(1755)から拡張し、乾隆25年(1760)に竣工しました。

この他、保安宮の大殿の竜柱の落款は嘉慶甲子年、つまり嘉慶9年(1804)で、これは《淡水庁志》の記載より早いです。また同福建系三邑人と同安人が台北盆地内で対立する過程において、乾隆3年(1738)、三邑人は艋舺に龍山寺を建て、同安人は大龍峒に保安宮を建て、これに強く対抗しました。そのため、保安宮が創建された年代は文献の記載と比べ、更に数年早くなります。
2. 保安宮と四十四坎
 
保安宮と大龍峒の街の集落発展には密接な関係があり、過去、保安宮の建設と商店街四十四坎の関係についても、多く議論され

保安宮は最初、当時の四大姓が協力して資金を集めてできたもので、王姓一族が寄付した土地に廟を建て、そして陳、張、蔡など大姓の支持を得ました。そしてこれら大姓は四十四坎の商店ともおおいに関係があります。発展上、保安宮の祭祀行政区は一、二、三堡の一部の地区です:

一堡:大龍峒、滬尾、北投。
二堡:和尚州、三重埔、新庄。
三堡:大稻埕。


保安宮の宗教活動は、毎年に、大帝の誕生日(旧暦3月15日)、昇天日(旧暦5月2日)、中元(旧暦7月10日~12日) 3大祭祀と言われます。その費用は三堡の住民が順番に負担し、現在は多くがこの旧習に従っています。そして保生大帝の生誕に、同安出身の各姓がお金を出し合って芝居するのが家姓戯で、3月5日から28日まで、張姓から始まり、呉姓がしんがりの順番です。これからも張姓の力が最も充実していることがわかります。昔から「大浪泵の張、加蚋仔の楊」と言い伝えられています。

そして三堡の住民の支持のもと、保安宮は数回の修繕を経て、さらに風雅になりました。道光8年~13年(1828-1833)、泉州から招いた名匠許厳が本殿の三十六神将祭神を彫刻し、その造型と手法には

光緒21年(1895)下関条約が結ばれ、台湾が日本に割譲されると、台湾民主国大統領唐景崧はアモイに逃げ帰りました。日本軍が上陸して台北が陥落し、地方は混乱で、円山にあった火薬庫が爆発、保安宮にも波及しました。光緒24年(1898)、保安宮は日本人に占拠され、第3付属国語学校とござ製造会社が設立され、これは大龍峒公学校に変わりの前身です。その後、保安宮は長年占拠されたため、メンテナンスが不良で廟の絵の具がはげ落ちても修繕されませんでした。後に三堡の有力者が寄付を募って修理しました。

大正6年~8年(1917~1919)の修築は大規模で、保安宮は三堡の有力者である沈猪、陳培根、林明徳、李声元、鄭根木、陳春輝、黄賛鈞、林清敦、蔡受三らがそれぞれ資金を集め、二年間をかけてようやく修築が完成しました。今回の最大規模の修築が順調に竣工できたことを祝うため、廟側に大正9年(1920)1月18日(旧暦大正8年11月28日)から、5日連続して祭壇を設けた活動をすることに行いました。

祭壇の手配:玉皇壇は保安宮殿の前に、天師壇は保安宮の前殿に、北極殿は辜顕栄の別荘に、五穀壇は大稻埕の新媽祖宮前に、龍王壇は保安宮前の東畔新起店に設けられました。このほか4つの副壇があります:外城隍壇は太平街に、福徳壇は稲江市場内に、観音壇は城隍廟のそばに、灶君壇は牛磨車庄福徳祠内にあり、それ以外にも、自ら壇を設置して参加し、盛りあげた者もいました。

この5日の祭壇の経費におよそNT$50万元かかったと推測され、保安宮は政界の要人を招待し、地方の名士たちを参与させる能力があると同時に、このように莫大な経費を1、2ヶ月以内に募ることができ、保安宮の充実した人脈と影響力を見ることができます。

保安宮には住職を務める僧侶がいますが、実際に廟の権力と財産を掌握管理するのは管理人です。大正1年、管理人王慶忠の管理が不適切だったため、三堡の信者の不満を招きました。そこで信者の鄭万鎰など20名あまりが発起して、大稻埕の慈聖宮で会議を開き、管理人の職務を解除すると共に再選挙し、三堡の中からそれぞれ2人選出し管理人を担当する決議をしました。この他に理事30名、また評議員若干名を選出しました。管理人の任期は6年で、6人の管理人は次の通り:一堡の陳培根、沈猪、二堡の林啓輝、林明徳、三堡の黄玉階、鄭万鎰です。

保安宮の修築完成後から皇民化の時期まで、廟側は多くの行事を行いました。その1つが孔子祭です。その時、台北孔子廟の建設がまだ完成していなかったため、“台北崇聖会”が孔子祭の典礼を主宰し、早くは大正15年(1926)、保安宮内で開催されました。昭和2年(1927) 9月22日、台北崇聖会が再び保安宮で孔子祭の式典を挙行しました。

2つめは雨乞いです。明治35年(1902)、現地住民は長く続く干ばつのため保安宮に雨乞いをしました。その後長い間中断し、昭和18年(1943)に再び行われ、これは地主の代表社の陳錫慶が責任者として、5月16日に挙行されました。まず道士に天に奏章を呈してもらい、儀式終了後、陳氏が率いるもと、数十人の農夫が正式に台湾神社に参拝しました。

民国34年(1945) 8月、台湾は復帰しました。戦争の影響のため、台湾各地の状況はよくなく、保安宮もそれから逃れられませんでした。復帰当初、保安宮の管理人の多くが亡くなったり、離散したため、宮の事務はほとんど止まってしまいました。39年(1950)、中国から台湾に撤退してきた兵士の家族と難民など計130戸あまりが、東廡の仏祖殿と西廡の註生娘娘殿、裏側の五穀先帝殿を占拠し、わずかに残された正殿の中門から出入りできるだけでした。

民国41年(1952)、地方の大学者が「保安宮臨時再建委員会」を設立し、黄賛鈞に修繕の大事業を主宰してもらいました。民国46年(1957) 6月、「保安宮管理委員会」に組織改革して、林拱辰が主任委員を引き継ぎました。林氏の各方面への働きかけにより、民国55年(1966)、台北市政府はこの項目の補助を支出し、長い間仮住まいしていた軍人の家族を引越しさせました。また宮内の違法建築を除去して、ようやく工事を順調に行うことができました。民国56年(1967)に後殿を修築するとともに、古くからある不完全な先帝宝像を焼いて、新たに木彫りの宝像と孔聖先師の宝像を作りました。

林拱辰は再建

保生大帝(979~1036)は、姓を呉、名夲をと言い、また呉真人、呉真君、花轎公などの尊称もあります。字を華基、号を雲衷といい、福建省の泉州府同安県白礁郷人で、北宋の太宗太平興国4年(979)旧暦3月15日に生まれました。幼少の頃から聡明で、多くの書物を広く読み漁り、一度読んだら忘れず、特に医術に優れていました。17歳で奇異な人に導かれ西王母に謁見することができ、妖魔を退治する術を授かりました。24歳で科挙に合格し、御史職に任ぜられ、その後、辞職し隠居すると、白礁大雁山で修行しました。彼は一生菜食で結婚せず、医者として世の人々を救い、助けた人は無数です。宋の仁宗景佑3年(1036) 5月2日、修行が終わり、鶴の迎えが来て、同郷の人がひざまずいて見送るもと、昼間昇天しました。享年58歳でした。

 大帝は生前、点龍眼、医虎喉(龍の目に薬をさし、虎の喉の痛みを癒し)などの伝説が伝えられています。昇天した後も、神としての痕跡が何度も現れ、国を守り民心を安定させました。宋高宗は太子の時、金朝に人質にとられていましたが、大帝が霊験を現し、護衛されて中原に帰ることができました。高宗が即位した後、詔書を発して廟を立て、大道真人の名を与えました。

 明の成祖帝の文皇后が乳の病いを患い、薬石効がなく、侍医は手の施しようがありませんでした。大帝は道士の姿で現れると絹糸で脈をはかり、皇后の病気を完全に治しました。成祖は金を贈りましたが、大帝は断って鶴に乗って去りました。成祖は大帝に感謝し、「昊天闕御史慈済医霊妙道真君万寿無極保生大帝」という名を与え、龍袍と宮殿建造の勅命を出しました。大帝は難しい病気を治療し、世の人々を救い、後世には医神として敬われ

伝説によると、三十六神将はもとは玄天上帝に仕える神で、玄天上帝が成仏した後、その部将の亀と蛇の2人の部将が世の中で悪さをしました。そこで玄天上帝は所属する三十六官将を人質にして、保生大帝から宝剣を借り、亀と蛇の2人の部将を服従させました。しかしその後、玄天上帝は威力を持つ宝剣を手放すことができず、ずっと返さなかったのです。そのため保生大帝は三十六官将を護壇神将として身辺に留めたのです。別の説では、保生大帝が同安県一帯の山林で薬草を採集し丹薬を作っていた時、虎にかみ殺された同安県知事の童僕を生き返らせました。この県知事は保生大帝の無限の法力を見て、大帝の弟子として修身したいと願い、大帝に聞き入られました。江県知事は役所に戻ると、張師爺(すなわち張聖者)に、非凡な人に出会って弟子にしてもらった事を話すとともに、官を捨てて大帝について修行したいと表示しました。そして役所の印鑑を彼に手渡したところ、思いがけなく、張師爺も貴重な機会だと感じ、官位を捨て同行することになりました。その後、保生大帝が白礁山に隠居し修練していた時、1日中経典を解釈し、教えを受けた人は日に日に多くなり、門下は秘法を深く理解し、正統な信者が36人になったと言うことです。

 《台北保安宮専誌》の記載によると、三十六神将は紀仙姑、連聖者、五龍官、鎖大将、金舍人、倒海大将、李仙姑、馬龍官、劉聖者、柳大将、唐舍人、移山大将、趙元帥、殷元帥、岳元帥、王孫元帥、辛元帥、必大将、康元帥、温元帥、紀水真人、鄧元帥、李元帥、高元帥、鄞仙姑、張醒者、拿大将、江仙官、虎加羅、食鬼大将、何仙姑、蕭聖者、捉大将、紅化官、馬加羅、呑精大将です。ただ楊浚の《白礁志略》中に列記された三十六神将の神譜によると「神妹の呉明媽、神の妹婿の王舍人、江仙江少峰(同安の県知事)、張聖者(同安の主簿)、黄医官、程真人、鄞仙姑、鄧天君、連聖者、劉海王、孔舍人、炳霊官、馬迦羅、虎迦羅、劉天君、王霊官、李太子、何仙姑、殷太子、張真人。殷、古、宋、孟、岳、辛、高、二李、周、江、党、黒、康弼、田直、龐、楊、王、黄諸元帥と各将はみな次第に加入し、現在、廟中の主神に添えて描かれています。」

宋朝時代からの言い伝えによると、虎が1人の婦人を丸飲みにしたところ、婦人が頭にさしていたかんざしが喉に刺さりました。ひどい苦痛のため、呉真人に助けを求めて来たのですが、呉真人は「おまえは多くの人や獣を殺した。これは天の懲罰だから、おまえを救うことはできない。」と責めました。ところが虎は立ち去ろうとせず、ずっとその場で頭を下げ懺悔していたので、呉真人はその真心に感動し、ついに治療してやりました。虎は呉真人の恩恵に感謝し、それ以後、片時も真人から離れず、生前は真人の乗り物として働き、死後も忠誠に守護したので、真人は猛虎を神にしてやりました。民間では毎年4月16日を「虎爺」の祭日とし、「黒虎将軍」または「将軍爺」と呼んで尊崇し、民間の「虎爺」とはまるで違います。

またの名を五穀先帝、薬王大帝、五穀先生、先帝爺、開天炎帝、炎帝神農氏、五穀王、粟母王などと言います。神農大帝はつまり神農氏で、姓を姜といい、厲郷に生まれ、姜水で育ちました。言い伝えによると、母親が華陽を旅した時、神龍の頭が見え、帰宅すると妊娠しました。大帝が生まれた時、体は人で頭は牛という変わった容貌でした。

 神農氏は農具を発明し、人々に農耕と開拓を教え、狩猟から農耕へと変化進展させました。彼は自ら様々な草を味わい、薬草の属性を分類するとともに、人々病を治療しました。一般に民間が祀る神農像の多くは上半身を露出し、手に稲穂を持ち、腰を木の葉で覆った原始的イメージです。伝説中の「人身牛首(体は人で頭は牛)」のイメージと趣が大きく異なります。

 保安宮になぜ神農大帝が祀られるのかというと、聞くところによると百年あまり前、台湾は干ばつで、たくさんの作物が成長できずに凶作になりました。ある者が神農大帝に雨乞いをすると、ほどなく本当に雨が降り、日照りや凶作の現象が全で取り除かれたのです。人々は大帝の恩恵に感謝し、神農大帝を当宮の後殿に祀ることにしたのです。

中国の古代社会は礼制で各種建物の形と構造を制約したほか、また礼制の要求により、適した建物の壇、廟、祠のような建物のタイプが生じました。人々が神を崇敬するにつれ、その建築規制の形式と発展に対し、相当の影響がありました。礼制建築には自然神の壇廟と人文神の廟の二大類が含まれます。祭祀の対象が異なるため、共に祀られる人も異なり、建物の形と構造、規模上も、その神格により、かなり大きな違いがあります。
保安宮に祀られる主神の保生大帝は宋時代の真人で、また皇帝から称号を賜るという、天子の礼を有します。その敷地は3000坪余りあり、全国最大の保生大帝廟です。廟は北に位置し、南に向き、建物の配置は、三川殿(前殿)、正殿、後殿に分かれ、中軸の主体を構成します。両側には東西護室と鐘鼓楼を配して、完全な三殿回字型構造を形成しています。正殿が最高で、後殿、三川殿、東西護室の順で、儒家の礼制思想と道教の形制(形と構造)観念を備えています。廟の前の庭園内には池があり、池に卍形の橋がかけられています。そして、1961年に建てられた照壁も「後有靠,左右有抱,前有照(後ろに頼るもの、左右に抱くもの、そして前に目かくしがある)。」という風水の哲理に合っています。  
保安宮の建物には、開墾移住者の本籍の背景も反映されています。例えば屋根は伝統的な木造構造の三川脊式、屋脊(屋根の棟)は福建南部式風格、地面と壁面上に積み上げた幅広で偏平な赤れんがや赤瓦など。三川殿と正殿の吊筒は全て竜頭を伸ばし、これも同安や漳州、泉州一帯の手法で、重大な特色を現しています。歴史的価値を持つほか、その精致な木彫り、石刻、彩色画、泥塑、剪粘など、建築芸術上においても非常に高い成果があります。芸術は宗教と同じく、どちらも人を敬虔な気持ちを起こさせます。

前殿とも呼ばれ、幅は5開間(2本の柱の空間を1開間とする)、中央に3開間の三門を開け、左門が竜門、右門が虎門で、入口に仁獣を一対置きます。左右とそれぞれに山門が1つ、合わせて11開間あり、建物の木造構造は二通三瓜式を採用しています。歇山重簷、仮四垂屋根、硬山などで、保安宮の家屋の高低交錯と、軒下の翼角の飛揚するような視覚効果を構成します。大門横木上には双竜双鳳が彫刻され、四角の雀替には飛竜と鰲魚(頭が竜、身体は鯉)が彫られ、中梁には魔よけの太極と後天八卦図案がデザインされています。その他に「看架斗栱」上にはそれぞれ異なる表情の八仙、賜福天宮と騎鶴仙翁が彫られています。

保安宮のちょうど中央に位置する壮麗な建物です。建物は独立構造を採用し、幅が5開間の重簷歇山式造型です。頂飾は七級宝塔と精致な剪粘で、建物の木造構造は三通五瓜式で、高く大きな屋根が視野の大部分を占めます。外観について言うと、正殿の形と構造は厳格且つ重厚な造形で、36本の柱を用いてます。回廊には20本の柱を用い、安定し、ほとんど左右対称ですが、実は左右で少し異なります。これは日本統治時代の大正6年(1917)の修復時に、陳応彬と郭塔という2人の名匠が現場で技を競いあった結果で、完成後、左右の外観それぞれに神技的な面白さが現れました。宮殿前の台は神を祀り、修行を積み、加持祈祷をする場所です。殿内に用いた材料は一般の寺廟と異なり、非常に大きい瓜筒で、華麗な装飾天井に代えました。棚の上の木彫りは非常に特別で、軒先を支える横梁を斗栱に代えて「憨番扛大杉(大杉を担ぐ憨番)」を用い、いっそう堅固な構造にしました。「憨番」ははげ頭でお腹が突き出たとてもおもしろい造形です。さらにストーリー性のある「人物」の光背の彫刻が精密で生き生きしているので、じっくり鑑賞する価値があります。

建築形式は単簷硬山の造形で、9開間を呈し、木造構造は三通五瓜式を採用し、三川殿や正殿と同じく、力強い通梁と瓜筒で木造構造の力学的美感表現しています。後殿の特色は、殿内の雀替に飛鳳が彫刻された木彫りがあり、造形が優美で、ほぞをつなぐための花草台座と獅子台座の木彫りは、工法がまたきわめて精緻です。

東西護室は正殿の両側に位置し、赤い素焼きの屋根瓦と白壁が、あっさりして地味ですが、特色をさらに目立たせています。鐘鼓楼を東西護室の頂上に置いた歇山重簷式建築で、その楼閣は四角形で、台湾でよく見られる六角形と異なり、きわめて特殊な造型です。東側の鐘楼と西側の鼓楼は、それぞれを陳応彬と郭塔という2人の名匠が工事を受け持ち、木彫りデザインと彩色画図案の風格がことごとく異なります。鐘鼓楼の正面には、それぞれ「鯨発」、「鼉逢」の額があります。鐘楼の軒下の網目斗栱は縦横に交差し、高い難度の木造構造の技巧で、斗座の上まで「リスとカボチャ」の木彫りで飾られています。カボチャは種子が多く、リスの発音は「送子(たくさんの子孫という意味)」と似ているので、たくさんの子孫があるようにという意味を持ちます。そして鼓楼の軒下にも精緻な「蓮花」が彫られた吊筒や、「飛鳳」の雀替、「螭虎」の栱があり、鐘楼と鼓楼それぞれの違いが見て取れます。

保安宮の裏庭で、もとは花園でした。天子の門下生の所在地で、1980年に4階建てのビルが建設されました。大雄宝殿、凌霄宝殿はそれぞれ3階と4階に位置し、1983年に完成した建物です。北方宮殿式建築を採用し、黄色い瑠璃瓦の重簷屋根で、400坪余りを占めています。1階に雲衷ホール、2階に図書館が設置されています。

寺廟の装飾芸術には木彫り、石刻、彩色画、泥塑、交趾陶、剪粘などが含まれ、全てに奥深い意味と、豊かな教育的意義を持ちます。その題材の内容は人物の画像で表現され、主に歴史、文学の典拠、神話、伝説故事に分けられます。例えば《三国史演義》、《封神演義》…、正史の《漢書》、《史記》…などです。その他、似た発音やシンボルで表示され、例えば、4匹のコウモリは「賜福」を表し、元宝は「財」を象徴します。花瓶は「平安」を表わし、カニは甲羅を持つので「登科甲(科挙に登る)」の意味があり、葫蘆(ヒョウタン)は「福禄」と発音が似ています。旗、球、戢、磬の発音は「祈求吉慶」を表し、琴、棋、書、絵は「詩礼伝家(伝家の詩経礼記)」などを象徴します。

保安宮三川殿の左右両側の石造彫刻で、それぞれ竜壁と虎壁が刻まれ、「左青竜、右白虎」という伝統的観念に基づいています。竜堵には天竜と水竜が珠玉を奪い合う図案が彫刻され、上に雲、下に波があります。虎堵には母虎と子虎が戯れる光景が彫刻され、木の枝が風に揺れ、《周易・乾・文言》の「雲は竜から、風は虎から」の意味に符合します。中門両側の石堵上には、左右の頭板にそれぞれ「恩隆民物」と「徳同乾坤」が彫られています。身堵には、四角い螭(角なし竜)虎窓が置かれ、4匹の螭と虎が上下左右を囲むように彫られ、中間には「麻姑献瑞」と彫られています。裙堵には吉祥の獣、麒麟が彫られ、下方には櫃台脚を置いて、形と構造がとても整っています。

保安宮中門の左右に、二基の石獅が立っています。雌雄各一基で、慣例通りでは、雌獅子は口を閉じ、雄獅子は口を開けています。言い伝えによると、彫刻した時、職人が誤って雌の口を大きく裂けさせ、規定に合わないため罰せられ、工賃を減らされたそうです。この二基の石獅の造形は一般のものと異なり、目が大きく、尾も大きく、巻き毛で口を開き、角度が大きいです。古人はこの獣を「牴牛」と呼び、「牴」は法獣で、「牛」は仁獣だと伝えられています。

保安宮三川殿の明間(重要な部屋)と正殿の次間の竜柱は嘉慶9年(1804)と嘉慶10年(1805)に作られた、保安宮最古の石造彫刻作品です。八角柱に竜身が浮き出し、4爪の竜がとぐろを巻き、前足は波に、後足は雲に登り、並外れた勢いの清代中期の竜柱の代表作です。大正7年(1918)の修築時に、正殿の明間に、天地の安泰と平和を象徴する双竜の竜柱を一対新たに増加しました。竜柱以外に、三川殿のその他の石柱は全て角柱で、反対に円柱は旧制建築です。正殿の石柱は四角形で、六角形、八角形で、柱の基礎の彫刻方法には、円形、角形、菱花形の3種あり、寺廟建築中、滅多に見られないものです。後殿明間の花鳥柱は保安宮が大正6年(1917)に修築した時の作品で、牡丹と雀がそれぞれ姿を表し、造型が優美で、非常に芸術的風格があります。

保安宮の左右東西の山門の両壁上には、さらに書巻竹節窓が彫られています。窓枠は石材を用い、書巻形式に彫刻されています。中間には竹が刻まれ、奇数の竹の幹が陽を表し、偶数の間隔が陰を表し、陰陽の調和を意味します。

保安宮三川殿の前後重簷の水車堵と東西山門の水車堵の泥塑は歴史的人物の故事で、ライバル施工法(二名の建築士により別々施工)でもあります。東山門は洪坤福の「甘露寺」で、西山門は陳豆生の「鳳儀亭」で、東西護室の扉と窓上の泥塑、交趾陶は造形が異なります。例:掛け軸、書巻、旗印、ザクロ、芭蕉の葉、仏手、カボチャなどの図案装飾です。正殿の重簷の水車堵の剪粘と泥塑は陳豆生の作品で、清供博古と歴史的人物の故事を主とします。正殿内壁の大型竜虎堵の交趾陶はその作品サイズが非常に大きく、まず分割した後、個別に焼いてから組立て、鷺江洪坤福作の落款があります。後殿内壁の竜虎堵の交趾陶、構図と風格が正殿内の洪坤福の作品と全く異なり、泉恵洛河江の蘇宗覃の作品です。そして、屋根の棟、軒下、水車堵上には各タイプの剪粘と交趾陶が分布し、色鮮やかで美しく、題材が豊かで、一つ一つが緻密に細工され、しかも生き生きとして、寺廟にたくさんの特色を加えています。

保安宮三川殿の木彫りは大正6年(1917)の修築時に陳応彬と郭塔が技を競った作品で、光背、雀替、吊筒などを含みます。テーマには「趙雲救主」、「孔明智激周瑜」、「曹操宴長江賦詩」、「薛仁貴巧計攻摩天嶺」、「成湯聘伊尹」、「尭聘舜」、「呉滅楚」、「劉邦先入咸陽城」、「花木蘭代父従軍」、「煮酒論英雄」、「甘露寺」などがあります。郭塔はさらに光背に「真手芸無更改(真の腕前は変更するところがない)」と「好工手不補接(良い仕事は補わなくてよい)」の字を残しています。しかし斗拱の木彫りには恵安の職人、曾銀河の作品もあります。正殿の木彫りは、屋根の重簷の斗栱が陳応彬と郭塔の対抗作「八仙大鬧東海」です。当時、郭塔が「鬧東海」の3字を刻んだのに対し、陳応彬は「八仙大」と刻まず、ほかにも、郭塔は斗栱上にも「仮獅破真獅」の字を残しました。その他、光背、雀替、吊筒の木彫りと殿内の神棚などがあり、テーマには「辞母従軍」、「空城計」、「寒江関」、「八仙」などがあります。後殿の木彫りの光背、雀替、吊筒などには古い作品が保留されています。

保安宮三川殿明間の大門の門神はもとは張長春が描いたものです。保安宮のひさしの梁や棟、門窓扉などの絵画のほとんど全てが彼の手によるものです。正門に描かれた秦叔宝、尉遅恭の2人の門神は特に生き生きとし、貴重なもので、絶品と称されています。民国72年(1983)、保安宮が絵画の書換えをした時、劉家正によって描き直されました。今回、三川殿を修復した時、木材が損壊したため作りなおされ、元の大門の門神は後棟1階の雲衷ホールに保存され、新作の門神も劉家正に描いてもらいました。明間の左扉は白い顔、切れ長の目、鐧を持った秦叔宝、右扉は黒い顔、大きな目、鞭を持った尉遅恭です。竜の側の小港門の門神は官帽をかぶった文官と子鹿で、加冠(昇官)、晋禄(昇給)を象徴します。虎の側の小港門の門神は官花と酒杯を持った文官で、添花(美)、晋爵(昇官)を象徴します。東西山門は四大官将です。

壁画は中国で悠久の歴史があります。唐代に壁画が流行し、宮殿や寺には有名画家の絵筆が多くあります。宋代になると文人画が起こり、巻絵が壁画に取って代わり、壁画は民間の職人の専門となりました。保安宮正殿周囲の回廊壁面の彩色壁画は、テーマが「韓信跨下受辱」、「朱仙鎮八槌大戦陸文竜」、「鍾馗迎妹回娘家」、「八仙大鬧東海」、「花木蘭代父従軍」、「虎牢関三戦呂布」、「賢哉徐母」などの7枚に分かれています。それらは亡き人間国宝、潘麗水先生が民国62年(1973)、保安宮に残した比類なき大作です。

 保安宮は200年あまり、何度も修築、増築し、たびたび建物の装飾を変えました。大正時期の修築では、漳派の職人、陳応彬と郭塔が技を競い、その神技にはそれぞれ長所があり、きわめて高い芸術的価値があります。三川殿両側の木彫りの光背、正殿屋根の重簷の「八仙大鬧東海」の木彫りの斗拱、東西山門の水車堵の泥塑は明らかに対場作品です。特に当時、西洋風が東洋に入り、三川殿の木彫りの光背には西洋のビルが出現し、泥塑にも洋服姿の女性と背広姿の紳士が現れています。西洋文化が台湾の伝統工芸と融合し、特殊な風格を形成しています。

ユネスコの2003アジア太平洋文化資産保存賞は、私的領域内で50年以上保存されたり、修復された建築物に対する最大の努力によって得られた成果と貢献であり、個人及び組織に対する肯定です。大龍峒保安宮の副董事長廖武治は、この大賞が台湾国内にとり初めての特別に光栄なことで、台湾が文化的な古跡保護を重視するという国際的イメージを高めた点で、重大な意義があると言います。 今回、大龍峒保安宮はユネスコのアジア・太平洋地区の文化遺産保護の申請をした9ヶ国22の候補中、突出していたため、この特別な栄誉を獲得したのです。 保安宮の修復作業に対し、大会の選考委員会は高い評価を与えました。「1805年に保存建設された大龍峒保安宮は、主要な表現がその技術的成果にあり、その文化遺産保護作業の勇大な抱負の範囲が広大で、非常に注意深いです。この特別案はバランスさせる方法を採用し、現代科学の保護方法と伝統建築と装飾工芸の間をバランスさせて、この歴史的建物の当初の風貌回復に尽力しました。そのディテール修復に対する注意深さと慎重さ、そしてこのケースへの惜しみない賛助が、この建物を保護する宗教と建築上に大きな意義を持ちます。」

台湾の各種祭祀式典中、地域寺院の新築や再建落成を祝って行なわれる「慶成醮」が最も重視されています。一方、地域の寺院が集落にとり信仰の中心であることから、民衆は地域寺院の盛衰が全体の運命の福災に関係すると信じています。もう一方で、地域の寺院はしばしば、数十年を経てようやく大規模な修復を行います。そのため、これは集落中にとり大事件で、通常「慶成醮」は地域の大イベントとなります。

祭壇の空間配置は、まず国暦5月25日に豎灯篙(灯りをつけた竿を建てる)儀式を行います。そしてすぐ、天地神と境界内の信者たちが召されて、祭祀の儀式が正式が展開します。次に外壇を建てます。五大壇は同時に国暦5月30日に施工し、主壇は保安宮前方の庭園に設けられる玉皇壇で、MRT円山駅の横の公園に観音、福徳、天師、北帝などの四大壇が設置されます。

祭壇の科儀(儀式)の準備については、古代からの礼式に基づく堅実な内容で3日間、執り行う以外、北部地区の道術に優れた道長で構成された道士団も招待します。そのメンバーは普段宮に駐在し服務する李継昌道長が主壇を担当し、このほか基隆広遠壇の李松渓道長を鑒壇大法師に、李松渓道長の子李坤道長を副主壇に招聘します。

祭祀の儀式の主な特徴は、式典中の「安竜謝土」の科儀に勝るものはなく、主な目的は宮廟の修築期間邪魔された土地竜神を落ち着かせて、廟の基礎を堅固にさせることです。この科儀は75歳もの高齢の李松渓道長自らが主宰します。

安竜謝土の後、引き続いてすぐ、3日3晩行なわれるのが三朝醮典科儀です。その主な目的は壇の主人らの罪を解いたり、幸福を祈ることです。また廟の栄光や線香の火を盛んにしたり、穏やかな天候、国の太平と人々の平安も祈ります。祭祀の式典の儀式は非常に多く、その重点は、1日目の午前の発表、啓請、安灶と夜間の解結、祝灯;2日目の日中の三朝科儀と夜間の放水灯、開啓、禁壇;3日目の午前の敬天と午後の普度です。普度の後、跳鍾馗押狐の儀式を行います。

6月17日午前10時の三献礼の祭典に参加した来賓には、陳水扁総統、王金平立法院長、馬英九台北市長、呉碧珠台北市議会議長など、政府や国会議員、市議員など民間代表と寺院代表400人あまりを含みます。

当宮の三朝慶成醮に合わせて、関連の活動も開催します。醮典シリーズの講座、台北市立美術館で国際的に有名な撮影家柯錫傑が撮影した保安宮の作品、民俗技芸セミナー、および手工芸品展、醮壇芸術のガイドなどを包括します。

伝統的な農業社会の中で、廟会(縁日)は祭祀活動をする以外に、各種の民間芸陣団体のパフォーマンスもあります。そして、庶民もこのような廟会の祭りに参加するのが好きで、神に対する敬虔な感謝の気持ちがり、またカーニバルのような狂喜的作用もあります。
保安宮は伝統上、毎年の保生大帝の生誕祭は地域にとり重大な祝典活動です。
民国83年(1994)、保安宮はこのような伝統的な廟会活動に現代的な人文精神を注入して、一種新しい文化の活力とさせました。そして「保生文化祭」活動への発展が始まったのです。

遶境は神が集落境界内を巡回して、神霊の力で「村全体の平安」を守ることです。 
保安宮の遶境活動は保生大帝神生誕前日の旧暦3月14日に挙行されます。午前中、まず保安宮の廟庭で民俗競技が行われます。午後1時から、報馬仔、土地公、頭旗車などが真っ先に先導し、続いて、各寺廟の軒社、力士会、芸陣などが1列になって廟の前に入り、長寿を祝うパフォーマンスを展開します。隊列は当宮の正門から出発し、長く限りなく続くさまはきわめて壮観です。
毎年、遶境ルートはほぼ同じで、遶境の範囲は大龍峒、大稻埕地区を含みます。パレードの先頭が宮廟を通る時、爆竹を鳴らして歓迎の意味を示し、ある宮廟は先頭が神に向ってお辞儀する時、さらに鐘と太鼓を一斉に鳴らします。 
遶境の隊列は通常、夕方になってようやく廟に戻ります。各祖保生大帝を恭しく迎え、宮に戻った後、はじめて全ての遶境活動が終わったと言えます。続いてすぐのイベントが「放火獅」で、遶境を高潮に押し上げます。

「芸陣」は芸閣と陣頭を合わせた名称で、民俗的な廟会活動にとって不可欠なパフォーマンスです。 
「芸閣」は別名を「詩意閣」、「花車」と言い、そのスタイルは車にボックスを取り付け、上に民間伝説の人物を乗せます。「陣頭」もやはり民俗パフォーマンス団体を指し、宗教、音楽、趣味、芝居などのタイプに分かれます。
廟会の祝典時にはいつも、廟自身が神さまに恭しく巡回に出ていただく以外に、各祭祀団体や信者も芸陣を招いてイベントを盛り上げ、パフォーマンスを支援します。これは神に報いるという意味のほかに、陰に力比べの意味合いもあり、そのため多くの風俗民情が残されています。

台湾伝統の地方戯曲の公演活動は、グループの参加により、感情表現と族群の連帯感という目的を相当程度達成することができます。保安宮の毎年の家姓戯は、まさにこれにより、大龍峒同安人の求心力を効果的に凝集させています。 
しかし、都市が急速に開発されるにつれ、大龍峒は旧コミュニティとなりました。多くの居住者が他の場所へ移住し、新たに引っ越してきた人々が加わり、親族組織は日に日に崩壊しました。そのため家姓戯固有の社会文化の特質もすでに存在しなくなりました。 
現在、「保生文化祭」中、「家姓戯」のパフォーマンスは依然としてにぎやかに行われていますが、とっくにモデルチェンジし、近代的社会の中で民俗文化の新しい姿になっているのです。その劇のタイプは過去と比べて更に豊富で、布袋戯、高甲戯、歌仔戯、北管戯と南北管の演奏を包括し、パフォーマンス団体にはプロの劇団、保安宮社団、学校の芸術科などの3タイプが含まれます。家姓戯に参加する団体メンバーについて言うと、とっくに伝統的性質の「家姓」に限定せず、源はいっそう拡大しています。

旧暦3月15日は保生大帝の誕生日です。当宮では常に当日生誕の祭典を三献礼の古礼に則って挙行しています。
初めの太鼓から荘厳な迎神、保生大帝の霊験を称えて唱え、祝文や絹などを焼き、式典全体が終わるまで、場面は荘厳で厳粛です。
祭典中には、いつも政府長官を招き、線香をあげて祀ってもらいます。

寺廟を文化的なレジャー観光の中心として広め、郷土芸術に対する興味を増進してもらうため、当宮は「保生文化祭」の期間、いつも「古跡ガイド」活動を行っています。
このような活動は各界から非常に歓迎され、休日のガイド以外に、各政府、社会、宗教、学校などのグループが皆団体で見学に来ます。案内を通して、人々はすぐに歴史と接して、祖先と親密になり、宗教芸術の貴重な宝物に対する認識と敬慕が増えます。

保生大帝は医神なので、文化祭の活動では漢方医の無料診察、漢方医療講座、漢方文物薬材展を行います。
当活動は保生大帝が医者として病人を救った精神を継承していると言えます。当宮の信仰の特質が現れ、また現代科学に適した態度と方式で漢方の文化を保存し発揚しています。

台湾の国民に保安宮を見てもらう機会を与えるための保安宮をテーマとした撮影コンテストです。専門家によって優勝作品を選出して、「保生文化祭」シリーズ活動と組み合わせ、同時展示しました。今回の活動は寺廟の建築芸術を推進し、カメラマンの注意を引きつけるなどの目標を達成しました。さらにマスコミの協力を通じて、保安宮と「保生文化祭」活動をうまく宣伝し、一挙数得と言えます。その後、数年の保生文化祭でも度々撮影コンテストを催しています。
小さい時から着実に民俗文化教育の根を下ろすため、当宮は83年(1994)の「保生文化節」で第2期児童絵画コンクールを催しました。「保生文化節」の動態、静態の展示活動の追憶画、或いは廟会活動の想像画をメインとし、これにより、子供達が宗教民俗文化に関心を持つのを助け、そして子供の美感能力と鑑賞能力を高め、レジャーライフの内容を豊かにします。
この活動は今なお「保生文化祭」中、常に開催しています。

にぎやかに沸き返る巡回パレードのほか、当宮は静態の文物展覧も催しています。
文物展の内容は主に当宮が常設する展示品です。最近の修復で淘汰された保存文物と各種旧式の祭器を包括し、例えば清代嘉慶年間の木彫りの竜頭、花鳥雀替、青磁双竜花瓶、醴(甘酒)瓶、八卦香炉、保生大帝の竜袍、竜耳炉、方鼎、燭台、日本大正時代の古い帳簿などです。

「保生文化祭」のクライマックスは保生大帝生誕当日の「火渡り」です。
当宮の火渡り儀式は歴史が長く、大台北地区内にはわずかしか残っていません。しかも同安の故郷の特色的な宗教習俗を保留していると言えます。しかし当宮は取り立てて観光化せず、昔の実施内容の主旨を一切壊していません。例えば火渡りの前に神明に問う時や、聖人の巡回、聖意の指示に従い材料の薪を置くなどの流れはみな百年来の習わしの特色を維持しています。

全体的に見ると、当宮が催す「保生文化祭」は、伝統的な民俗信仰の祭典を基礎とし、さらに新しい文化的資質をプラスして、モデルチェンジさせ、宗教、文化、観光、民俗の特色を兼ね備えた活動にしました。そのため毎年、地域にセンセーションをもたらし、また北部台湾の盛大な年間行事になっています。

公演場所:保安宮の庭園
公演時間:昼公演 14:00-16:30 夜公演 19:00-21:30

大龍峒保安宮115年度第二次獎、助學金申請簡章